気ままに暮らしています
by miyakeoriibu
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
お気に入りブログ
以前の記事
都羅の小径ウォーキングⅡ
10月6日(土)
昨年も都羅の小径ウォーキングが行われ、都羅の小径の東半分(連島東小学区)を歩きました。(こちら
今回は西半分(連島西浦小学区)を歩きました。

(地図はクリックで大きくなります。)
c0079206_10362653.jpg

今回は昨年解散した宝嶋寺駐車場が集合場所
主催者の挨拶や準備運動をして、2列に並んで出発しました。
c0079206_18202715.jpg

c0079206_1822597.jpg 


児島高徳顕彰碑
倉敷市中島出身の漢学者
三島中洲(みしまちゅうしゅう)の碑文。

児島高徳はこの土地に3年ほど滞在。
土地の女性と結婚したとか。

c0079206_19345751.jpg浅浦船着場跡
もやい石というのは、船が流されないようにつなぎ止めておくための石。
ということは、昔はこの辺りが海岸線。
現在はどんどん埋め立てられ、多くの家や田畑、それに水島工業地帯まで出来ています。現在の海岸はここから直線距離で約10km以上南。

c0079206_2015284.jpg
亀島神社
連島の山の麓の平地にありました。
この辺り(亀島新田)が開拓された時に建立。
御霊は亀島山の亀島神社から遷宮されたそうです。

c0079206_20381982.jpg
厄神社
西之浦の氏神様、連島の総氏神様として厚く尊崇されています。
境内からは瀬戸内海や水島工業地帯が眺められました。
境内の一角には郷土が生んだ詩人薄田泣菫の詩碑がありました。

薄田泣菫詩碑   (クリックで大きい画像に)
c0079206_20443719.jpg
6枚の屏風型の詩碑で、左から鋭角、直角、鈍角。
鋭角は泣菫の初期、直角は中期、鈍角は後期の作品を表現しているそうです。
泣菫の代表作 「ああ大和にしあらましかば」 が伊部焼き(備前焼)の陶板にしてはめ込んであります。
講師の三宅昭三さんは、この難しい言葉の詩を声に出して詠み解説してくださいました。
筆塚には泣菫が生前使用していた筆記道具が納められています。

    一の明神  二の明神  子守明神(三の明神)
c0079206_2135812.jpg
神宮皇后の妹・玉姫または玉依姫命がある男と恋愛関係になり、すでに懐妊していた。姉である神宮皇后は怒って、身重な身体にもかかわらず、小船に乗せ乳母を一人つけ流罪にした。姫を乗せた船は色々なところへ漂着したが、だれひとり救う者はなかった。
たまたま、セイ網に出漁中であった連島の漁民がこの船を見つけ、近づいてみると二人の婦人がまるで死人のように倒れていた。船を亀島山の首のところへ引き寄せ、介抱。ようやく眼を開いた。見れば見るほど気品があり、一見平民とは思えない。漁民たちは丁重にもてなした。かねて懐妊中だった姫は、漂流の疲れもあり、女の子を早産。だが、嬰児はまもなく死んでしまった。当時の慣わしとして、菰巻きにして海に流したが、沖に流れようとしない。これは子の魂が母を慕って戻ってくるのに違いない。そこで、拾い上げ、持ち帰り、現在の二の明神のところへ丁重に埋葬した。その後、母君も乳母も女の子(姫)の後を追うように死んでしまった。
一の明神は母君(玉依姫)、三の明神(子守明神ともいう)は乳母が祭られているそうです。
三の明神には行きませんでした。
この辺りで行われている「明神講」の由来だそうです。
c0079206_2246655.jpg

箆取神社にも行く予定でしたが、昼近くなったので今日はここで解散。
歩いて集合場所の宝嶋寺駐車場まで帰りました。(7186歩)

説明は前回と同じ郷土史家の三宅昭三さん。
住んでいる地域のことがよく分かりとてもよい勉強になりました。
c0079206_2301767.gif

[PR]
by miyakeoriibu | 2012-10-06 23:02 | 地域のこと
<< 金木犀 フジバカマ ベンケイソウ まだまだ夏野菜が・・・葡萄 >>


検索
その他のジャンル
外部リンク
ファン
記事ランキング